法永居士の発願
林叟院は、文明3年(1471年)現在地の焼津市坂本ではなく、焼津市小川(こがわ)の会下之島(えげのしま)に長谷川次郎左右衛門正宣(じろうざえもんまさのぶ)を開基として建立されました。長谷川次郎左右衛門は坂本の地頭、加納義久の次男として生まれ、長谷川家の嫁婿となった人で、篤く三宝に帰依し自らを法永居士(ほうえいこじ)と号しておりました。
時代は応仁の乱世にあり人々の心身は荒廃を極めていました。そこで法永居士は領地である小川の地に寺を建立し、人々の安寧を図りたいと考えました。当時この地域の名僧崇芝性岱(そうししょうたい)禅師が開いた坂部(今の静岡空港の南側)の石雲院には、三千人を超える(伝)修行僧がおりました。その中に石雲七哲といわれる七名の名僧の内の一人、備中岡山の生まれである、賢仲繁哲(けんちゅうはんてつ)禅師が修行に励んでいました。法永居士は石雲院の崇芝禅師に懇願し、賢仲禅師を林雙院の開山としてお迎えしたのです。開創当時、寺の名は「林雙院」と表わしました。それ以降賢仲禅師は小川の林雙院にて人々の教化に務めたのでした。
不思議な修験者の予言
開創して二十七年の歳月が流れたある日のことです。一人の年老いた修験者が現れ、
賢仲禅師に言葉静かにこう忠告しました。「来年にはここに天変地異が襲って来る
でしょう。林雙院は新しい土地に移転した方がよいでしょう。」賢仲禅師と修験者は
連れだって適地を探しに門を出ましたが足は自然と高草山の方へと向かいました。
やがて今の坂本の地まで来ると修験者は「この地こそ寺としての適地であります。
もし、私の言葉を信ずるならば私は永く護法の山神となりましょう。」と告げました。
賢仲禅師が振り返るとそこに修験者の姿はなく、大きな杉の木の根元に一片の石を
残すのみでした。
事の次第を法永居士に伝え、その年直ちに今の坂本の地に寺を移しました。すると
その翌年の明応7年(1498年)8月には大雨のため大洪水となり、また大地震の発生で
大津波がこの地を襲い、寺の跡地は勿論のこと小川の海辺は海中に没してしまいました。
これが世にいう「明応の大地震」です。この大地震は東海地方に甚大な被害をもたらし
ました。推定マグニチュードは8以上、記録ではその津波による溺死者2万6千人(地震に
よる全体合計か)と伝えられます。
大きな被害と多くの犠牲者を出した悲しみの中、修験者の予言により難を逃れた林雙院は
このことを後世に伝え残すため、寺の名をその老人を意味する「叟」の字をとって「林叟院」
と改めました。それ以来、老人が一片の石と化したといわれる場所にそびえる大杉を
「山神杉(さんじんすぎ)」と呼び、またその石には住職が交代ごとに血脈(けちみゃく)を
授け仏縁を結び、「山神血脈石(さんじんけちみゃくせき)」と呼んで寺を守る護法の
神として奉るようになりました。

写真:高草山頂を背に佇む林叟院
禅師の道風を慕って
賢仲禅師は永正5年(1509年)までの三十八年間を林叟院にて過ごしました。禅師の道風を慕って参禅するものは大変多く、伽藍が傾く程でした。七十歳を過ぎた禅師は陰楼のため島田の伊太の愚鶏寺に閑居しましたが、弟子の大樹宗光(だいじゅそうこう)師が静居寺(じょうこじ)を建立することとなり陰に陽に助力を与えました。その建立後は静居寺で老を養う身となり永正九年(1513年)静かにその生涯を閉じました。齢七十五歳でありました。
林叟院から枝分かれした末寺寺院は県内外二六〇余ヶ寺を数えます。その繁栄は賢仲禅師を始めとしてその弟子またその弟子と名僧を多く輩出したことによるものでした。
生前の賢仲禅師は「林叟院の御開山は私ではなく、日夜この山にあって我をお護り下さる本師、崇芝性岱禅師様である。」という言葉を残されました。この言葉を後世まで引き継ぎ、私たちは今でも崇芝性岱禅師を開山として賢仲繁哲禅師を二代様として供養しているのです。


写真:山神杉 写真:山神血脈石
林叟院略年表